テキスト「直観について」 | 一目均衡表日記

テキスト「直観について」

はじめに

 仏教学者の増谷文雄氏(1902生~1987没)は仏陀の悟りについて次のように述べています。(注)

1.釈尊のさとりは直観であった。
2.この直観は「ああ、そうだったのか」と触発せられるような種類の、いわば受動的な直観である。
3.本来、言葉で説明する事が出来ない直観を思い整え知性化することで釈尊の悟りは完成した。

 このように考えると仏教者達の現在に至るその営みは仏陀の直観に触れる為、という一面を持っています。仏陀の言葉(経)を研究する事も、行為(行や説教)を真似る事も仏陀の直観を自ら体験しようとする営みなのでしょう。

 私は均衡表を本当に身につけるには、仏教者が釈尊の直観に触れようとした様に、一目山人の直観を理解せねばならないと思っています。

 もちろん私たちは一目山人の直観には既に触れています。「ああ、そうだったのか」という感銘は私自身、原著を読むたびに経験していることですが、触発され頭に浮かんだもろもろの事を、実際の相場に生かす難しさを感じています。つまり道具になりきっていない訳であり、皆さんと共通の悩みを持っています。

 勉強会の目的は、皆さんが相場を直観し、さらにその直観を活用可能にしていただく事です。経済変動総研としてはそのお手伝いしか出来ません。講師の竹内先生の解説と、このテキストであります。竹内先生の見方、考え方とご自身のそれを比較して相場に活用できるよう工夫され、テキストを通して一目山人への理解を深めて頂ければこの勉強会は十分意義のあるものになるでしょう。

 9月のテキストでは一目山人の時間論に影響を与えた仏教思想について述べました。今回はその続きとしてベルクソンの思想を鳥瞰したいと思います。ベルクソンは直観を重視した20世紀を代表する哲学者ですから時間論よりはむしろ思考の流れを述べる事になります。

2000年12月 細田哲生


注「釈尊のさとり」講談社学術文庫
 増谷氏には思想家としての仏陀を語る、わかりやすい著作が多い。近代欧州(イギリスのインド統治の結果生まれた)のインド学が明治の日本仏教に与えた影響を主張されているのが興味深い。仏教思想を含めたインド哲学が西洋から伝わった事は日本の仏教界に衝撃を与えた。特に浄土真宗は明治期最も積極的に西洋哲学を取り入れ、真宗教学はヘーゲルの弁証法を取り入れる事で親鸞の魅力を門人以外の人々に広める事となった。


ベルクソンの思想

 哲学は「知」に関する学問ですからベルクソンは先ず「知る」方法を次の2つに分けて考えます。

1.科学的、分析的な知り方:外から眺める方法
2.哲学的、直観的な知り方:内から捉える方法

 外から眺めるには眺める場所、立脚点が必要になります。つまり立場が違えば対象物は異なって見える事になり、この方法で得られた認識は相対的なものになります。科学は人間の生活の為の、あるいは行動の為の学問ですから認識の絶対性は必要無いのですが、外から眺めただけでは本当に知ったことにはなりません。

 分析的な認識方法は、ある立場に立って、何らかの尺度、記号を用いて、知ろうとする対象を表現せねばなりません。記号、つまり言葉や概念は変化する対象を正しく語りきることが出来ません。変化そのものをこの方法では正確には把握しきれない事になります。

 一方で内から捉える、とは自らその対象物になって、その対象を内観する事ですが、一般的には対象になりきることは出来ません。内観が可能なものとしては「意識」があります。
 「意識」は同じ内容、不変の状態で留まる事はありません。時間と共に刻々と変化する、概念では捉え切れない唯一無二の存在です。「意識」が「時間」と共に変化する、と言うことは「時間」もまた概念では把握し切れない、とベルクソンは考える訳です。

 ここでベルクソンは意識を唯識論とほぼ同様にとらえています。

20051013時間の流れ

図は①から②、②から③へと変化する意識の流れを表したものです。唯識論者が時間を刹那(瞬間)という細かい単位に区切って、意識をその単位にはめ込んでいるのに対して、ベルクソンは分、秒といった時間にこだわってはいません。唯識論よりは道元に近いかもしれません。

 意識を直観するとは図のように時間の流れにおいて意識を見ることです。「変化」は意識がそうであるように時間を伴いますから、直観とは結局、時間の流れの中でそれぞれの状態を観る事だと結論するわけです。ベルクソンは唯識論や道元と同様に①~⑤を全くの別の状態だと考えますから、時には過去からの法則性を捨てて①ならば①、②ならば②という現実そのものと対峙する必要性を説きます。

 このような事を前提にしてベルクソンが知ろうとしたのは生命の変化(進化論)でしたが、進化論へよりも別の影響を現代にあたえました。
 一つは、還元主義への批判であり、一つは時間の認識方法に対する批判で共に近代に対する問題提起であります。

 近代はデカルト以降、分析方法を確立させてきました。近代科学の発展は次の2つの印象を私たちに与えることになります。

1. 全体は部分の集合体であり、結果には原因が伴う。だから問題解決には原因を知り、問題のある部分を直しさえすれば良い。
2.時間は過去から未来へ均質で、水平に流れている。

 共に一面では正しい考え方です。1は科学の方法論についての問題、2は時間の捉え方についてであり、ここではこれ以上深く入ることが出来ませんが、いくらでも研究書がありますので興味のある方はご自分でお調べ下さい。

 「ところで、人間の時間、生きられる時間は、すでに述べたように、概日リズムという生物学的な時間の基礎の上に成り立っている。ということは、生物学的存在であるとともに、社会的、文化的存在である私たち人間は実際にはきわめて重層的な時間を生きているということである。」(「共通感覚論」中村雄二郎著・岩波現代文庫)


直観の方法

 ベルクソンは直観を、流れる時間のなかで観る事、と定義しました。
 変化そのものを表現しきる事は出来ませんが、変化するものの幾つかの状態(瞬間)を可能なかぎり丁寧に分析する事がベルクソンにとっての直観であります。ですから直観は分析を否定するものではありません。今年1月のテキストで述べたシャーロック・ホームズのように、実際には直観と分析は切り離すことは出来ません。

 ところで仏教には止観という修行方法があります。時代により、宗派により違いはありますが、字の通り意識を止めてそれを観ずる瞑想法です。仏教は物事を捉える眼を大切にする教えです。心に曇り(欲望等の)があると正しく見ることが出来ないので、心を本来あるべき真っさらな状態にせねばならない、という意味合いがありますが、日々、何千回、何万回と意識を観じつつ心の塵を落としていこうとするわけです。これなどは直観の一種、あるいは正しく直観するための一つの方法ですが、私たちもこれと同じように止観を活用しています。

 あるテレビ番組で将棋のプロが語っているのを見ました。自分の指した試合を覚えているのは当たり前のことですが、この人は印象に残った試合(勝っても、負けても)は指したときの指の感触まで覚えていて、その記憶を何度もたどるそうであります。
 芸事は特におこなっては頭の中(全身の感覚を伴いますから頭だけではありませんが)で反復する、という練習方法をとることが多いようですが、イメージの中であらゆる失敗を経験し、その中で数少ない成功のイメージを持てた人だけが、実際の経験を生かすことが出来るのでしょう。 

 一目均衡表もまた、この止観を用いて相場変動をとらえる方法であります。チャートは現在までの価格の変化を実際に(期間は限定されますが)閉じこめていますから、これを分析する事自体、止観と同じ認識方法ですが、一目山人と私たちの一番の違いはその訓練の質と量にあるのでしょう。

 相場は後からわかる。と原著も後からわかる大切さを説いていますが、分析し結論づけた現在の位置と、将来の予測が正しいか否かは時間が経過せねば確認出来ません。ただし時間がたてばはっきりする訳ですから、次に分析する時には、常に前回の誤りを認識し、改良していかねばなりません。一目山人が3年、50回は読んで勉強してほしい、という言葉は決して軽いものではありません。相場の変化、自分の方法論、自分自身の認識の変化について、過去から現在までを一目山人が辿った回数は前述のプロ棋士の比ではないでしょう。すぐに理解しようとせずに、「ああ、そうだったのか」と直観するまでは、あらゆる試行錯誤を重ねながら勉強していただきたいのです。


 以前、シャーロック・ホームズの直観と論理について述べましたが、ここでの直観は「~ではないか?」という仮説発想の意味合いでした。仏陀の直観は「ああ、そうだったのか」という受け身の直観ですし、ベルクソンでは内観であり、「瞬間そのもの」を意味したり、意味合いは微妙に違っていますので注意して下さい。

 ベルクソンについては中央公論社の世界思想体系「ベルクソン」に納められているエッセイ「ベルクソン哲学の素描」おもだか ひさゆき著、を参考にしました。
 道元もベルクソンも、原著(現代語、日本語訳で十分です)に直接触れて頂いた方が均衡表との共通点もより理解出来ると思います。

 3月のテキストではもう一度だけ相場とあまり関係ない一目山人の人生観について述べるつもりです。