テキスト「弁証法について」 | 一目均衡表日記

テキスト「弁証法について」

はじめに

 一目山人は直観と論理の人であります。
 本質を直観力によって探り出し、それを論理的に組み立て検証する作業を山人は生涯怠りませんでした。

 以前、コメントした藤田家の久原房之助(一目山人にとっては祖母の従兄弟にあたる)が一目山人と大変似た直観力をもっていますが、これを良くあらわす二つの例を紹介します。

1.鉱山経営において探鉱に初めて機械力を活用し飛躍的な増産に成功したこと
2.株式市場を資金調達の場として捉え、積極的に活用した初めての実業家であること

 藤田組は藤田鹿太郎、久原庄三郎、藤田伝三郎、の兄弟で明治6年に始められたパートナーシップ制の会社で、この時期に成長していった三菱や、大倉のように権力が一人に集中する体制ではなく、業種も土木、鉱山業に固執した経営を行います。
 しかし小坂銀山の赤字が経営を圧迫し、出資者に対する責任から閉鎖を決定、その閉鎖処理を房之助に命じました。現地に赴いた房之助はここで銅が採れることを知ると直ちに銅山として再出発をさせ、閉鎖処理に与えられた期間に経営を好転させました。同じ労力で銀よりも銅のほうがはるかに産出出来たからですが、この事が房之助に極めて単純な図式をイメージさせることになります。それは出費よりも多くの入費があれば良い。コストが同じならばより効率的な方法で行う。というもので房之助の直観はこの図式にあてはまるルートを見つけだすものでした。
 後に独立して日立銅山を経営するとき、可能なかぎりの機械化を行いますが、目的は産出量をいかに増やすかという一点にあり、機械も外国から取り寄せたものを活用しました。あまりに過酷な増産のため機械の修理部門がフル稼働の状態になり、日立製作所として独立することになりますが、これは房之助の意図とは無関係です。

 房之助の目的は自分の会社を三井や三菱のように巨大で影響力のある財閥にすることでした。藤田が発展しない理由を鉱山に固執しすぎている形態に見いだします。これは権力が自分に集中すれば財閥として発展していくと思っている伝三郎と対立するものであったために、両者は別れ、房之助は一企業家として出発することになりました。多くの企業を擁するには、今ある企業を買い取れば良く、房之助にとっては買収資金だけが問題でした。
 彼はこの問題の解決を株式市場の中に見いだします。それは自分の手持ちの会社を上場公開して、株価のプレミアによって企業買収を行うというもので、買収した企業をさらに上場し、買収を繰り返す、という相場の上昇期には機能する方法です。
 この方法は昭和初期の新興財閥、日産や昭和電工等によって受け継がれましたし、さらに新興財閥の発展を見た旧財閥の三井、三菱等が株式市場の資金調達機能に眼を向けるようになった、という点で興味深いものがあります。
 このように房之助の行動は合目的で、目的達成に至る最短距離を直感的に組み立てる資質を持っていましたが、その理屈は三段論法的で平面的なものでした。株価の上昇が企業活動の命綱でありながら、相場の下落に対して何も注意を払わなかった事で経営は悪化し、企業家生命を絶たれる結果になりました。

 一目山人もまた同様の資質を持っていた事は以前述べ、両者の違いを、瞬間しか認識できない者と、継続した時間において瞬間を認識する者の違いとして説明しました。
 両者の違いをその目的の違いとして見るならば、一目山人にはあらゆる目的よりも優先されるものがあったということかも知れません。それは「生きる」事であり、山人にとって「生きる」とは日々の生活を死の瞬間まで「運ぶ」事でした。ですから運んで行くためには何が必要か、運べなくならないためには何が大切か、という問いがあらゆる思考の根本にあります。このことは均衡表を理解する上で極めて重要ですから9月のテキストで述べますが、山人には物事に肯定と否定の両方の要素を見いだす弁証法的思考がありました。

 それは、物事の是も否も、将来においては生かされていなければならないというものですが、この思考法に最も影響をあたえたのが浄土真宗であると思います。ですから今回は弁証法を説明するためにヘーゲルを、さらに真宗独特の弁証法を説明することで一目山人の思考について理解を深めて頂きたいと思います。


ヘーゲルの哲学

 弁証法という言葉を辞書で調べると「物の考え方の一つの型。形式論理学がAはAであるという同一律を基本に置き、AでありかつAでないという矛盾が起こればそれは偽だとするのに対し、矛盾を偽だと決めつけず、物の対立、矛盾を通して、その統一により一層高い境地に進むという、運動、発展の姿において考える見方」(岩波国語辞典)と説明されています。

 ヘーゲル(1770年生~1831年没)の時代には幾つかの歴史的大事件があります。特にフランス革命とその後のヨーロッパの激変を肌で感じた事は大きいでしょう。ヘーゲルはこの変化を「自由と理性の胎動」であると見ました。歴史を支配するのは理性であり、歴史の流れは自由の発展過程である、というのがヘーゲルの歴史観です。 世界史は、非自由、反理性的なものと自由、理性的なものが対立し、闘争し、統合する繰り返しに過ぎないが、これによって常に前よりも自由で理性的な社会になっているとヘーゲルは考えました。

20051023弁証法
   
 ヘーゲルのおもしろさは非自由、反理性的な要素を無意味な物として捉えない点にあります。なぜならば図のように対立と統合がなければ、次のより良い自由の段階は訪れないからです。いったんは矛盾、否定として存在した要素がつぎの段階では矛盾ではないもの、否定的ではないものとして新たに存在する、というものの見方はヨーロッパにとっては新しいことでした。なぜならヨーロッパの論理学が2000年にわたってアリストテレスの古典論理学を標準としていたからです。ですからヘーゲルは古典論理学の批判者でもあります。

 例えば
1)一目均衡表は全ての相場変動に対応出来る(大前提)
2)為替変動は相場変動である(小前提)
3)ゆえに一目均衡表は為替変動に対応出来る(結論)
という三段論法は、AはAである、Aは非Aではない、という論理的同一性を前提にします。ヘーゲルの批判は人間の思考、認識はこのように静的なものではないという批判でした。

1)正:肯定の判断、内省してみると矛盾を孕むことがわかる
2)反:1を否定して一歩前進するがこれも不十分であることがわかる
3)合(アウフヘーベン):そこで2も否定された新しい判断が生まれる
人間の思考、認識はこの繰り返しであると、ヘーゲルは考えます。古典論理学では否定の否定は元の肯定に戻るだけですが、この場合戻りません。

 このようにヘーゲルは社会と人間の認識の変化を弁証法によって説明しようとしました。ヘーゲルの哲学はマルクスに影響を与えたといわれますが、明治の浄土真宗にも大変な影響を与えます。


浄土真宗

 明治期、浄土真宗は積極的に西洋哲学を取り入れました。特にヘーゲルの哲学で真宗の教えを組み立て直します。色々な宗派がある中で浄土真宗が最もうまく弁証法を取り入れますが、これは浄土信仰が弁証法的変化を辿ってきた、というだけではないでしょう。
 日本の宗教家で親鸞ほど壁にぶち当たり、挫折の度に信仰が発展した人はなく、真宗自身弁証法を取り入れる下地を持っていました。

 浄土教は「阿弥陀仏の誓願を信ずることで浄土への生まれ変わりを期待する」仏教で無量寿経、観無量寿経、阿弥陀経の大乗仏典をそのよりどころとしています。
この中でも特に重要な無量寿経は
1)弥陀成仏の因果
2)衆生救済の因果
3)釈尊の戒め
という構成になっています。

 先ず釈尊が生まれるはるか昔に、次々と53の仏(悟った人)が現れます。53番目の世自在王仏の説教によって、ある国王が出家を決意し法蔵と名乗ります。この法蔵の衆生を救いたいという決意に打たれて、世自在王仏はこれまで現れた仏のそれぞれの浄土を現出して見せました。法蔵はこれら浄土を見て、良い物を採り、悪い物を除きながら、浄土の理想像を描きます。そして人々をそこに生まれさせたいと願いを建て、その願いを具現化するためについに48の願を建てます。その後、法蔵は浄土を建立し、悟りを開いて阿弥陀仏となりました。
 法蔵の48願は大きく3種に分けられます。
1)自分の理想とする仏身に関する願い
2)自分の理想とする浄土に関する願い
3)衆生を救済することに関する願い
 この48の誓願は「もし~でなければ、私は仏にならない」という誓いですが、法蔵菩薩が阿弥陀仏になったということは、これらの願がことごとく成就したことを意味します。そこで1)「もし光明無量、寿命無量の仏となることができなければ、決して悟りを開かない」の誓願の成就はそのまま阿弥陀仏の力が無限の空間、無限の時間に及ぶ事を意味します。同様に2)、3)もすでに達成していますから、基本的には阿弥陀仏によって浄土が約束された世界観と言って良いでしょう。

 大乗仏教は生きる者全ての救済を目指すものですから浄土信仰においても特に3)衆生を救済する事に関する願い、が重要視されてきましたが、この中に往生の手段が語られているのは第18,19,20願の3つだけです。法然はこの中でも第18願を最も重要視して、それまでの伝統的な修行を否定しました。親鸞はさらにこれを徹底させた人であります。

 ところで日本における阿弥陀仏信仰は呪術的な要素が強いものでした。死者が浄土へ導かれる、ということは死者の怨念もこの世界には残らないはずだという連想から多くの阿弥陀仏が建立され信仰が広がる下地となります。平安時代には源信が貴族の間に浄土信仰を広めますがこの時代の阿弥陀仏も死のイメージを切り離すことは出来ません。阿弥陀仏が生きている人にとってありがたい仏になるのは法然以後の事です。

 法然は持戒堅固、学識豊かな賢人でありながら、外にはあえて愚者の姿を示し、愚か者こそが救済の対象であると優しく説いた人です。そして次の3つのなかで18願こそ弥陀の本願であると説きました。

第18願:もし私が仏になるとき、あらゆる人々が至心から信じ喜び往生安堵の想いより、ただ念仏して、そして私の国に生まれることが出来ぬようなら、私は決して悟りを開きません。
第19願:もし私が仏になるとき、あらゆる人々が菩提心を起こしてもろもろの功徳を修め、心を励まして、私の国に生まれたいと願うなら、臨終に私が多くの聖者と共にその人の前に現れましょう。そうでなければ私は決して悟りません。
第20願:もし私が仏になるとき、あらゆる人々が私の名を聞いて、この国に念をかけ念仏の功を積んで、心を励ましそれをもって私の国に生まれたいと願うならば、その願いをきっと果し遂げさせましょう。そうでなければ、私は決して悟りません。

簡単に言えば18:念仏する、19:もろもろの功徳を修める、20:念仏の功を積む、ならば浄土へ行ける、ということです。
 それまでの浄土教では、功徳を修めるには念仏の功を積まねばならず、念仏の功を積むには念仏を唱えるのだ、という理屈で、最終的には徳を積み、徳の基を備えた念仏でなければ意味がないとする解釈が一般的でした。ですから法然は大胆に18願を中心にしたものの、自身は、20願にも帰依する形をとりました。このことは、念仏さえすれば救われると考える者と、徳を積まねばならぬと考える者の対立を生みます。
 この三願をどう解釈するかが、浄土宗と浄土真宗の決定的な違いですが、親鸞は19願と20願は、阿弥陀仏が私たちを正しく第18願に入信させるために設けた方便の、仮の誓願であったとして、18願こそ本願という教えを徹底させます。

 浄土教の世界観は、「真実は既に阿弥陀仏の本願として全ての人間に働きかけている」というものです。私たちは煩悩のせいで、光明無量、寿命無量の仏の働きかけに気づくことが出来ません。暗闇で声をたよりに人の位置を知るように、仏の名を呼び、仏の名を聞く事で仏と共にあることを知ることが出来ます。比叡山の修行に失敗し、自身の煩悩に絶望していた親鸞にとって法然の教えは眼の覚めるものでした。
 自我の執われを離れて、大いなるものにはからわれて生きていく生き方、順境も逆境も「ご恩であった」と受け取ることの出来る世界が親鸞に開けてきます。

 この信仰の行き着く先は、煩悩を知り、執われている自分を知ることも、結局は阿弥陀仏のはからいであった、ということになり、ますます阿弥陀仏の慈悲を確認し、やがては執着から解き放たれることになります。
 親鸞は第19願を「仏の名を称えることこそ浄土に生まれる因である」として除き、次に第20願を「仏の名号はいかに尊くとも、それを称えねば救われぬと力んで称えているのは、やはり人間のはからいがまじっていることであって自己の力をたのんでいることである」として除き、第18願のみに帰依していきますが、この事も親鸞にとっては阿弥陀仏の働きかけでありました。

 親鸞は「浄土に行くために」というよりも「日々、阿弥陀仏のはからいに感謝し、喜ぶ」という性格を浄土信仰に与えました。明治の浄土真宗は弁証法によって親鸞を再確認しますが、弁証法を知ったからこそ改めて想像できることも多かったことでしょう。


一目山人

 一目山人は20代の半ばに曹洞宗から浄土真宗に改宗しました。
 きっかけは金子大栄との出会いによりますが、この人は山人にとって生涯特別な存在であり続けました。金子大栄は真宗の学者で当時から京都では評価の高かった人です。その語り口は極めて弁証法的なものでした。弁証法は正、反、合の繰り返しであることは既に述べました。金子大栄は常に合を語るのですが、合を直接語ることはありません。聞く者が合に自分でたどれるように正と反を語る、という語り方でした。
 一目山人は極めて能動的な人ですから、何事も自分で気付く人でありました。金子大栄との出会いによって、一目山人は初めて「そうだったのか」と気付かされたのではないかと思います。

 自分が今まで気がついていたはずなのに、何かによって気付かされる。という経験は多くの均衡表読者が体験されていることでしょう。均衡表の知識を知ることと、実際に活用出来ることは違います。現実の相場によって気付かされたものだけが活用可能な知識となります。現実によって気付かされる、という体験は新たな出発を生むものです。

 久原房之助は革新的な事を次々と行いましたが、その精神、思考において新たな出発があったかどうかは疑問です。一目山人が相場において大きな失敗もなく仕事をやり遂げる事が出来たのは、新たな出発が破綻への道筋を常に閉ざす結果となったからではないかと思います。具体的には以後機会があれば述べますが、皆さんご自身で想像してみて下さい。

2001年3月24日    細田哲生

・ 藤田家のことについては本家の藤田忠義氏から多くを教えていただいた。久原房之助は結果的に失敗したひとであるから実業界でも評価が低いが、その才能と、仕事の歴史的意義は評価すべきだと私は思っている。この人に関する本は現在ほとんど手に入らない。

・ ヘーゲルについては「歴史哲学講義」(長谷川宏訳、岩波文庫)、「この一冊で哲学がわかる」(白鳥春彦著、三笠書房)、「現代思想入門」(宝島社文庫)を参考にした。長谷川宏は近年次々とヘーゲルを訳し、訳文のわかりやすさが評価されている。本格的に勉強するならば読むべき本がたくさんあるが、一般者にとっては白鳥春彦の本がいい。わかりやすさを第一に書かれているし、一冊の本としての完成度も高い。もし歴史を弁証法的に理解したいのであれば「歴史哲学講義」よりはマックス・ウェーバーをお薦めする。ヘーゲルの著作にはキリスト教の価値観が多分に含まれていている。弁証法によって人間は神に近づいていく、というヘーゲルの価値観は簡単に理解できるものではない。

・ 浄土真宗については「親鸞教義とその背景」(村上速水著、永田文昌堂)、「浄土真宗」(真継伸彦著、小学館)を特に参考にした。私は真宗の信者ではないし理解も浅いので、本来仏教について語る資格は無い。哲学についても同様であるから私の理解には誤りがある可能性がある。その点をご理解頂いた上で興味のある方には大いに勉強してほしい。