テキスト「商いについて」 | 一目均衡表日記

テキスト「商いについて」

都新聞のこと

 新聞業界では昔から政治部、社会部が力を持ち、その他の部署は現在でも軽視されがちだそうです。一目山人が商況部長を務めていた都新聞(現東京新聞)は大新聞と呼ばれる一般紙とは性格が違い、政治、社会面よりも文芸面、商況面を柱とする特殊な新聞社でありました。
 「瞼の母」を書いた長谷川伸、「大菩薩峠」で著名な中里介山等の人気作家が数多く生まれた文芸部は、新しい大衆芸術である映画や演劇を広く紹介し、文芸批評のパイオニア的役割を果たしました。その為に「都新聞=文芸面」という語られ方が一般的になされていて、商況面についてはあまり知る事は出来ません。
 都新聞商況部出身者は山人の他に元大阪新聞市場部長の藤本行雄や、兜クラブのキャップを務めていた露崎寿朗等がいます。戦後は日経新聞を中心に証券ジャーナリズムが形成されていきましたが、戦前においては都と中外商業新報(現日経)であった事が想像出来ると思います。

 兜町において都新聞が読まれた。そして都新聞において商況面が充実していた。という事実は、戦前の兜町が江戸時代からの商人文化を強く残していた事を示しています。

 山人が入社(大正12年)する以前の兜町は依然として個人営業の相場師的業者がほとんどでした。店の主人が仲買人として立会売買し、番頭、奉公人が店で働き客の注文を受けるという江戸期からの商店の形をとっていました。奉公人は売買の仕方、相場の見方等を、主人を真似ながら学んでいき、時期が来たら独り立ちします。
 明治11年に証券取引所が開設されてから証券業者に成ったものは、通貨が統一されるまであった商替商、米穀問屋、横浜組と呼ばれたドル屋等元々相場と関わりの深い人達ですが、丁稚から出発した商人であるには違いなく、江戸商人の伝統を引き継いでいることは容易に理解できます。
 これが決定的に変化するのは兜町が資金調達機能を持ち始めてからの事で、証券会社が現在のような形になるのは大正の半ばをすぎてから、ということになります。一目山人が記者として活躍するのは兜町が大きく変化する過渡期であります。恐らく古い兜町を知る最後の世代でしょう。

 一方、都新聞の前身は「今日新聞」で、益田克徳(三井合名専務理事 益田孝の実弟)らが小西義敬のためにつくった毎夕社が明治17年から発行しています。小西は失敗が続いていた実業家でしたが、通と呼ばれる趣味人でした。友人達は小西の才能が生かせるように考えて新聞社を設立した訳です。明治の新聞業には江戸時代の戯作者が記者として入って来ます。明治の中頃には大新聞からは姿を消していきますが都新聞の伝統はこの戯作者の流れを持つ人達がつくりました。その為に歌舞伎などの古典芸能や花柳界との関わりが強く、文芸面発展の土壌となります。
 一目山人というペンネームは現代人の感覚からすれば理解しにくいものですが、江戸文化を共有する人達からは自然に受け入れられる名前であったと思います。一種の言葉遊びで、都新聞には理屈散人(りくつさんじん)、やの字、等のペンネームを持つ記者達がおりました。一目山人は中外商業新報の小針寛司に素人というあだ名を付け、小針はペンネーム素人としました。他にも随分あだ名の名付け親になっています。戦後山人と知り合った人のなかには「一目山人はあだなをつけるのが好きだった」と評する人もおりますが、山人が記者として育った土壌ではごく自然な敬愛の表現であることがわかります。都新聞は山人が入社した大正12年の翌年、13年から入社試験で新卒者を採用しはじめます。社員数も極端に増え始めこの感覚を理解出来る人は減って行ったことが想像されます。

 自然に受け継がれてきた感覚がある世代で共有出来なくなってしまうのは、時代の変化を考えれば当然の事です。あだ名云々は実質的な問題ではありませんが、相場の見方売買において、共有されるべきものが忘れられてられているとすれば問題であります。相場の言葉は江戸、明治から残っている言葉が現在でも随分ありますが、語る側も聞く側も、昔と今では認識の度合いが違う様に思います。
 例えば都新聞の商況部で山人以前に部長を務めていた山浦喜平は兜町で自分の店を構えていた仲買人で、相場で店を潰して新聞記者になった人ですし、山人を入社させた福田英助社長は生糸相場で産を成した相場師でした。語る側も、聞く側も、相場の難しさと売買の難しさを体験的に理解している。そういう状態で証券記事が成り立っていた時代と現在の証券記事は本質的に異なります。
 私は古い時代の「商い」の意味合いが極めて重要だと感じていますので今回は「商い」について抽象的に論じたいと思います。


相場師

 成金と呼ばれた銀行家鈴木久五郎は紙幣に火をつけて明かりにした逸話で有名です。明治39年6月中旬に東京電気鉄道の運賃値上げのうわさが流れると、久五郎は直ちに1万3000株の買い注文を出します。7月に運賃値上げが発表されると株価は急騰しこの売買によって約23万円の利益を得ました。久五郎はこれを元手に日本郵船、鐘紡株を次々買い占めて、この年400万以上の利益をあげたと言われています。
 明治39年の日雇い労働者の平均日給42銭、第一銀行の大卒初任給35円と比較すると大変な利益ですが、明治40年の6月には全てを失い、兜町を去らねばなりませんでした。当時の代表的な銘柄東株は39年6月170円、40年1月760円、6月124円という値を付けていますが、一月からの大暴落は凄まじく久五郎のように大量の買いを一度に行う人は逃げようがなかった事でしょう。
 久五郎は当時28歳ですから一目山人より20歳ほど年上ですが相場師としては新しいタイプで、いわば直観重視、一発勝負の売買です。

 「商い」である以上一回限りの事ではなく、継続して売買が出来なければなりません。ですから一回でも失敗すれば全てを失ってしまうような売買の仕方は古い相場師はしません。例えば上げ相場であれば、ごくわずかな売買によって相場の反応を見定めた上で徐々に買いを増やしていき、利が乗って来たところで徐々に玉を減らしていくやり方です。買いという入り口が何カ所かある。売りという出口が何カ所かある。そういう中で勝負所を見極めて大きく売買をする訳で、売買の出発点と終着点をしっかりと意識しています。
 江戸時代の相場師本間宗久は酒田の問屋、新潟屋の五男、大地主本間家の基礎を築いた一人でもあります。酒田五法で有名ですが、この人が最も重視しているのは相場の入り方で、色々なケースに分けて入るべき場所を解説しています。宗久は罫線だけでなく、天候と作柄の関係、十二支と作柄の関係(当時年回りと天候は関係あるものと考えられていた)について実に丁寧に分析していまして、罫線を「直観を維持するための道具」「直観を得る為の道具」として活用しているように思われます。
 売買において入り口、出口があるということは、彼ら自身が見る相場変動にも老若、寿命があるということです。米相場からは優れた相場師が数多く出ていますが、一年草の相場は年一度の収穫期に対して常に時間を意識せねばならないので、当然のことでしょう。
 一目山人の父は米穀商ではありませんが、岡村商店を経営し商品作物を大阪の市場につなぐ準相場師で、山人自身12歳には相場を始めています。時間論を生み出した人の目標が鈴木久五郎タイプであったとは考えにくく、宗久の様な古い相場師に共感を覚えていた事が想像されます。

 一目山人と同郷の相場師で村岡金一という人がいます。彼は米穀商の奉公人時代、次のような訓話を受けました。「お前は今家賃も米代も要らぬ身で月給は丸残りだ。十円の月給を三円なり四円なり貯蓄すれば十枚の米は楽に張れる。当たれば良し。外れれば又、三、四ヶ月辛抱してから張るのだ、そうすれば誰にも迷惑をかける事無く一生懸命に相場の研究が出来る訳だ、一度思惑が的中すれば利食いは遅き程良く、損切りは早き程楽だよ。」当時の相場師が何を大切にしていたかが良くわかります。


時間

 時間論については過去に唯識論、道元の仏教思想とベルクソンの時間論を解説しましたが、一目山人にとって時間に眼を向けねばならぬ実際的な理由がやっと見えてきます。
 相場の時間が株式と米、生糸、それぞれ異なるという事実です。相場が違えば体験的に知っている時間の感覚が当てはまらなくなるという問題は商況部長を務める者にとって重大であります。商況部が扱うのは株式だけではありません。生糸も米も小豆も相場変動で投機の対象であれば全て、専門の記者達が記事を書きますから、これらを具体的に把握する方法がどうしても必要でした。
 一方で情報を活用する側からの要求もあります。兜町では大正時代に業者向けの罫線レポートが急激に増えていまして、それまで兜町で行商をしていた山口鶴次郎が千代田書店を開くきっかけになっています。千代田書店は日本で唯一の相場専門書店でありますが、創業当時の大正4年は書籍よりも相場レポートが主な商品でした。

 いずれにせよ相場変動を具体的に把握する道具として、一目山人が選んだのは時間でありました。高値から次の高値、安値から安値、安値から高値、あらゆる日数を調べた上で、仮説と検証が繰り返され、基本数値や、対等数値の概念がうみだされました。
 一目均衡表の事は原著を学べば判る事なのでここでは申しませんが、一つだけ注意していただきたい事があります。売買には入り口と出口がある。その売買を成功させるために相場の出発点と終点を把握する。と論じましたが、後から把握する相場から私たちが得る時間の感覚と、今現在把握しようとしている相場から直接体感しうる時間では性格が異なるという事です。
 原則的に一目均衡表では相場を受動面と能動面に分けて説明しています。しかし相場を後から把握した場合、どうしても受動面としてしか認識する事が出来ません。受動面が、何日上げた、幾日下げた、その結果何日後に転換した、という様に数で把握出来るのに対し、能動面は日数のみによって把握が難しい概念だからです。相場の能動面が判らなければどこが基本波動であるのか、出発点なのかを、検証無しに設定する事になります。検証作業が無いというのは均衡表の精神からすれば、これは最も逸脱する事で、本質的に前述の鈴木久五郎と変わりません。
 もちろん相場の受動面についての十分な理解無しに、能動面を把握する事は不可能です。完結編において平均株価が先、鐘化が後に説明してあるのもその為であります。
 変化日を迎えた地点での相場の現れ方、を体験的に理解する以外、能動面の把握は難しい。この事が同じ均衡表読者でも相場観が違ってくる最大の理由だと私は思います。

 各人、それぞれ違いが出てくるのは仕方ない事ですので、皆さん御自身が把握し得る相場を先ずはっきりと自覚していただきたいのです。3年も勉強を積まれれば「この相場は少なくとも幾日までは転換しない」とはっきりわかる場所が何カ所かは出てくるはずですので、そういう場所を大切にしながら、そのわかる相場に適した売買をして下さい。

2001年9月   細田哲生

(注)
 この文章に出てくる人達はほとんど故人となられている、一般常識に従い敬称は略させていただいた。

 都新聞の藤本氏、露崎氏、中外の小針氏が一目山人の弟子であった事が古い月刊誌に記述されている。それぞれ相場通の記者として名をはせた。

 江戸文化が明治生まれの新聞記者にいかに伝わっているかを知るにあたっては、岩波書店から出版されている「明治のおもかげ」がわかりやすい。また都新聞については日本図書センター刊「都新聞史」を参考にした。この本は書店で手に入りにくいが、東京都の図書館であれば、東京都の歴史資料として置いてある。 

 この本に細田悟一の名は二カ所しかなく具体的な記述は無い。福田英助社長は大正時代の中頃都新聞を買い取って、これを株式会社に改組した。新聞業は門外漢であった為、記事と人事に口をはさまない方針であったが、商況部だけは違った。他の社員から天領と呼ばれた商況部についてくわしい記録が無いのは当然であるように思われる。福田氏は後に横浜生糸取引所に理事として迎えられた。

 鈴木久五郎については講談社刊「日録20世紀1906」を参考にした。本間宗久については多くの本が相場関係者によって書かれているが、私はこの人達の認識をあまり信用していないので、相場部外者佐藤三郎氏の「酒田の本間家」中央書院刊を参考にした。本間家では手紙その他書き付けをほとんど残しており、江戸時代の商人のモラルを伺い知る事ができる。

 商人といえば、千代田書店の現社長、山口氏は三代目であるが、「商い」は「飽きない」だ。面倒な事こそこまめにやるように。との教育を受けたそうである。