テキスト「認識について」 | 一目均衡表日記

テキスト「認識について」

カント

 へーゲル流に言えばカントは哲学の変革者であります。「神は存在するか否か」を問題にしてきた近代哲学を「人間理性の限界に関する学」として再構築したからです。
 当時のヨーロッパでは産業革命、フランス革命等、次々と起こった激動の時代で、現代に通じる「市民社会」が成立しはじめた時期にあたります。この市民社会が成り立つ為には、自分で考え、判断し、責任を負う、という自己責任が共通認識として存在せねばなりません。
 カントの哲学は時代の要請に応えるものでした。それは、人間は何を知りうるか、何をなすべきか、何を希望してよいか、という問題を通して「人間とは何か」に答える人間学としての哲学です。

 今回はカントの哲学を借りて、一目均衡表の原点を語りたいと思います。現在品切れになっている総合編において、山人は「カント哲学を相場研究のための第一の学とした」と述べておりまして、以前コメントしたヘーゲルやベルクソン以上に示唆してくれるものが多い、と考えるからです。


二律背反

 1766年のカントの著作「視霊者の夢」は超常現象をテーマにしています。超常現象を扱う書物は現在も数多く出版されていますが、論を展開した上で肯定か否定の結論をだすものがほとんどです。しかしながらカントのこのエッセイは超常現象についてどう認識すべきかという認識論に重点を置いていて大変興味深いものであります。

 当時スウェーデンボルグ(1688~1772)という視霊者が千里眼、その他の超能力を発揮したということで、ヨーロッパ中の話題となりました。
 スウェーデンボルグの能力を信じて、その根底にある神秘主義を確信する者と、イカサマと判断して相手にしない者の対立を反映してか、カント自身はキリスト教徒として心惹かれる部分と、学者としてうさんくささを感じる部分の相反する印象を持っていたようです。
 カントはスウェーデンボルグの超常現象について二つの論を展開させていきます。一つはスウェーデンボルグ自身の主張する説明論理を用いた、「超常現象は現実で、スウェーデンボルグは視霊者である」というもの。もう一つはデカルトの仮説を基にした当時としては科学的な説明理論を用いた「スウェーデンボルグは精神障害を起こしていて、幻覚を見ているにすぎない」というものです。

 カントはこれら相反する二つの論を提示した上で、どちらを真実とみなすべきか判断出来ない事を告白します。どちらも経験概念の限界を大きく超えているから、論理的な正しさは理解出来ても認識はできないものである。すなわち「視霊者の夢」にすぎないというのであります。
 このエッセイは後に二律背反論へと発展していきます。
 人間は、その認識能力を超えて思考したときに、必ず同様に確からしい、相反する、二つの命題にぶつかる。というものです。

a 世界は時間および空間に関して始まり、限界をもつ
b 世界は時間および空間に関して無限である

 これはカントが挙げた二律背反の一例ですが、彼に言わせればa、bは同様に、納得のいく、明白で反抗しがたい証明をすることができるのです。
 具体的には測りようのない、経験しようのない概念を論理として組み立てたところで、その論が論理学的に正しいものであっても判断しようがない。その事をカントは明らかにした訳です。

 これは裏返せば客観的な正しさを私たちは認識出来ない。ということになり兼ねません。なぜならば私たちの経験と、その知識には限界があるからです。それではカントは認識の過程と客観性についてどの様に考えたのでしょうか。(以前コメントしたヘーゲル、ベルクソンの哲学も二律背反に対する彼らなりの解答と見なすことが出来ますのでテキストを読み返してみてください。)


認識論

 カントは人間の認識過程を
1、ある現象を、五感を通じて直観として受け入れる
2、受け入れたものを思考(整理、法則化)して判断を下す
という直観と思考の形として捉えます。共に経験が大きく作用する事はいうまでもありません。

 この経験の作用を限りなく削ぎ落としていった後に共有される直観、思考をカントはア、プリオリ(先験)と呼び、ア、プリオリなものだけで打ち立てられた論理学によって、私たちは客観性を共有できる、と考えたのです。
 例えば犬が走ってくるという現象について考えますと、犬の飼主とそうでない人、犬に詳しい人と犬を見たことすらない人では、直観そのものも異なることが判ります。しかし「何かが近づいて来る」という事はどんな人でも感じ取ることは出来るでしょう。
 感じ取るという感性自体は主観的なものですが、この場合の「何かが近づいて来る」という直観そのものは、知識と経験に作用されることなく共有されるでしょうから、客観性を有していると言えます。
 さらに「何かが近づいて来る」を単純にすると、「何かが位置(空間)を変化(時間)させている。」という空間と時間の形式である事が判ります。

 空間と時間という内なる直観形式こそア、プリオリな直観であり、同様に思考に対してもア、プリオリなものを抽出することで、客観的な正しさを知ることが出来る。という事がカントの認識論の骨子となるのです。


罫線

 相場変動という現象を認識する場合のア、プリオリなモノが何であるかを考えれば、一目山人がカントに惹かれた理由がわかります。
 空間(値段)と時間の形式で直観したものを思考、判断する。というのであれば罫線ほどア、プリオリな直観形式にうったえるものはありません。罫線において、経験的な知識を排除してもはっきり言える(認識出来る)事は波動論であります。次回のテキストで論じるつもりですが、皆さんご自身でも考えてみてください。

2002年3月     細田 哲生


・二律背反からヘーゲルの弁証法は生まれたといっていい。カントが「認識の限界を超えた場合、二律背反に陥る」としたのに対し、ヘーゲルは「全てのものがもともと相反する性質を持っている、だから認識能力を弁証法的に高めていけば正しい判断が出来る」とした。

・ベルクソンはカントの言う直観そのものに批判を加えている。時間を空間と同様に扱うべきではない、として独自の直観を提示した。

・私たちが相場を認識し、売買する上で(客観的な)確からしさを判断出来ない。という場面は多々ある。一目均衡表は論理自体が単純であるだけに、上げと下げ、買いと売り、どちらの説明も可能な場合がある。工夫しながらこの門題はクリアして頂きたい。