行って知る
人間の生き方、考え方につきましては、素よりいろいろあるでありましょう。幼稚なる生活者の出発点といたしましては、知って行う。というよりも行って知る。ということも決してバカにならぬことであります。
中略
とくに若い人々が、成長するに従って、何かを経験し、その経験を積み重ねて、いわゆる体験して行くこと。そこからいろいろの知恵が生まれてくるのでありましょう。その意味におきましては、知って行う。というよりも「行って知る」ということの方がはるかに正しいでしょう。
およそ50億年前からの生物の発達を考えると、たしかにその方が正鵠を得ているとも考えられます。
それこそは正に本能的とも言うべきでありますが、私は相場にも相場の本能がある。と考えています。
相場が人によって動かされるものであるか、あるいは相場それ自身が動くものであるか、もちろんその何れでもありましょうが「彼れ自身の真」。相場自身が自己表現のための変動。これを私は自然の相場。と申していますが、これこそは、相場の本能的変化。だと思うのであります。
このことはこれだけ申し上げて、アトは皆さんのご研究をお願いするといたしまして、先ず「行って知る」ということは、云うまでもなく極めて幼稚なる生活方法でありますが、しかし、昔からこの相場社会におきまして、いわゆる、「相場師」なるものは、そのほとんどは、この「行って知る」部類に属するのであります。
とは申しましても、それは決して知らずして行うものではありません。知った上にも知りながら、その知ったものの確かさを調べて見ようとするものでありまして、いわゆる「味ぢ」を知らんとするものであります。決して子供の成長過程におきますような幼稚なものではなく、極めて高度の知性によるものであります。
中略
これだけ申しますれば「行って知る」ということこそ、「行うことの難き」を本当に知っているからでありましょう。
皆さんかりそめに行って、儲けられた方ほど、やがてかりそめに行って、儲けの何倍かの損をされるにキマッテイル。とお思いになりませんか。よくよくお考え下さって、本書を心ゆくまでご勉強ください。
一目均衡表完結編
4月20日掲載の続き部分です。